1世紀以上に及ぶ歴史を振り返ります時、当時では大変珍しかった女性社長として、困難を乗り越えて創業をした大村ちゑの存在はとても大きなものです。
株式会社大村総業のルーツは古く江戸時代に遡ります。当時、駿河国(現静岡県)と甲斐国(現山梨県)を結ぶ日本三大急流の一つである富士川は、幕府直轄であった甲斐から江戸への廻米や生活物資の輸送で水運が発達しました。大村家は代々主たる水運業者の一つとして、重要な役割を担っておりました。ところが、明治時代に入り幕藩体制の終結により廻米輸送はなくなり、鉄道が整備され水運も衰退してきました。この動きをいち早く察知したのが、大村総業の創業者大村ちゑとその夫市太郎でした。ちゑは両親を早くに亡くし、長子として6人の弟妹の面倒をみるという責任を一身に背負いながら、家業も続けなければなりませんでした。「これからは富士川を相手の商売ではなく、海運、陸運に挑戦し、世のためになる事業を始める。」という高い志を抱き、日本の貿易の玄関口である横浜に進出し、1903(明治36)年5月に大村組回漕店を設立しました。
創業者大村ちゑが残した経営に対する考え方は、現在も継承されております。明治時代、男性中心である物流業界の女性社長として、横浜港に仕事を求めて集まってきた多くの人々を束ね、横浜港と港湾業務の発展のために、市太郎と共にちゑは奔走しました。第一次世界大戦、第二次世界大戦も経験し、戦火の中でも「社員の生活の安定と幸福・世の中の役に立つこと」「お客様と社員が会社の財産である」を経営理念に掲げ、男性と対等に仕事に取り組み、海運だけでなく、鉄道、自動車輸送にも事業を拡大していきました。一方で戦争未亡人を積極的に雇用したり、女性として常に周りの人々への暖かい眼差しと、思いやりを忘れなかったちゑでした。ちゑ夫妻はたくさんの困難に遭遇しながらも、会社を着実に成長に導いてきた矢先、1931(昭和6)年に市太郎が急逝するというちゑにとり最大の危機に直面しましたが、明治生まれの女性経営者としての強い信念を貫き、市太郎亡き後も事業を続けました。
その後、ちゑが産み育て守り抜いた事業は、創業から51年目の1953(昭和28)年、ちゑの実弟大村隆三と義弟の石井啓三が静岡県富士市に株式会社大村組を設立することにより、引継がれました。大村隆三と石井啓三は、ちゑと市太郎が灯した明かりを消すことなく事業を継承する覚悟で、社員たちと共に、「お客様と社員が会社の財産」というちゑの経営に対する姿勢を守り、社業の発展のために一致団結し全力で業務に向き合いました。この2人は、「人を育てる」ことに特に力を入れ、社員の中から社長を任命し、自らは陰から社員の成長と事業の発展を見守り、困難な事が生じた時には常に手を差し伸べることに徹しました。社会が困っていること、不自由に感じていることを迅速に察知し、「お客様の痒いところに手が届く」ことができる企業でありたいという想いは、創業者ちゑの願いであり、大村隆三、石井啓三からその息子たち大村忠男、石井康雄、そして歴代の社長に引き継がれ、今日まで継承されております。
目まぐるしく変化していく現代にあり、これまで会社が歩んできた道のりを振りかえり、その歴史から学ぶことは大変重要だと感じます。特に明治、大正、昭和を跨いだ、創業から60年間の苦労が現在の大村総業の根っことなり太い幹となっていることは間違いありません。この歴史を大切に、今後もお客様に支えていただき、ご指導を賜り精進してまいりますので、引き続きよろしくお願い申し上げます。